医労連の歴史と基本路線の確立


私たちの組織、医労連についてその歴史とその中で確立された基本路線についてを紹介します。

 1946年4月、敗戦による飢餓と窮乏、国民の医療・健康破壊の中で結成された全医協(全日本医療労組協議会、1万8千人)は、闘う労働組合運動の一翼を担って奮闘しました。
 この闘いの伝統を引き継ぎながら、今日の日本医労連の前身である日本医労協(日本医療労働組合協議会)は、1957年8月、9組織・30,850人の組織人員で発足しました。


 1960年安保闘争を受けて闘われた「病院ストライキ」は、医療労働組合運動史上はじめての産業別全国統一闘争で、東京医労連、全日赤からたちまち全国に広がり、大幅賃上げと診療報酬改定などで画期的な勝利をさめました。

 1965年に勝ち取った全医労の「人事院判定(月の夜勤は複数で8日以内)」を武器に、1968年に開始された「夜勤制限闘争」は第2次の医療産別統一闘争として発展し、全国の多く の職場で「複数・月8日以内」の夜勤協定を実現しました。
 制度的にも夜勤手当や職場保育所への国庫補助、夜間の車送り、特1類・2類看護の基準看護加算の実現など画期的な成果を挙げました。

 医療労働者は病院ストや夜勤制限闘争を通じて、医療労働者の要求は患者・国民の医療要求と結び付いてこそ実現できるということを自覚し、「医療労働者の賃金労働条件改善の闘いと患者・国民の医療改善要求の闘いを一体のものとして闘う」という医療産別の「基本路線」を確立しました。


 1970年代から80年代に入り日本医労協の提起する賃金闘争や春秋の産別統一闘争は、中央・地方で着実に前進して行きました。
 1987年の結成30周年の大会で協議体から連合体組織へ移行しました。

 1989年から開始した看護婦不足の解消とその社会的地位の向上を目指す「看護婦闘争」(ナースウエーブ)は、第3次の医療産別闘争の高揚を築きました。この闘いは、国民的支持を大きく広げ、社会的世論を背景としてついに1992年に「看護婦確保法」、「基本指針」を実現させました。そしていま「お礼奉公の廃止」、「看護婦養成制度の一本化」へ向けて大いなる前進を築きつつあります。