●労組改革の座標(出ない釘は腐る)


 「出ない釘は腐る」、「脱皮しない蛇は死ぬ」、「流れない川はよどむ」。

 われわれの陣営が、同じようなことを毎年繰り返しながらそれでも「展望」を失わないのは、「量的発展が質的転化をもたらす」とうい公式を信じているからだとしたら...。「量質転化」は一般論としては正しい一面を持つが、こと政権論においては現実を見る(直視する)限り、根拠のない楽観論にあたる。毎年の労働運動の繰り返しでは、政権交代は実現しない。
 それとも、政権交代など鼻にもかけていないということか。政権交代が、単なる自己目的でないとしてもそうなのだろうか。だとすると運動の目的は何か。
 現実の日本の政治の閉塞感の最大要因は、政権交代がないことだと思われるが、まさに現状認識が問われるところだろう。政権交代ですべてが解決する訳でないことは百も承知であり、むしろそれは自明の公理とさえ言える。否定する要因ではなく、閉塞状況を打ち破り、更なる運動を組み立てていくための前提ではないか。
 
 政権交代をねらうには、保守層の有力部分との共同、彼らの共感の取り付けが必要だ。この場合の保守層とは、財界・自民党筋の新自由主義路線で切り捨てられる一部保守層とは異なる。「保守との共同」の中身が問われる。

 かつてのように改革の旗手となるために、労組改革自体を担う幹部の養成が課題だ。
 
 高度経済成長に対応する労働組合運動は、団体交渉・ストライキ、集会参加・デモ行進。それにより、現実に企業や社会を動かし得たし、それに参加することで、団結力を実感し、社会や企業の主体者として労組員が成長して行った。正に、生きた組合員教育だった。
 組合員としての成長の過程は、経営者、自民党(さらには財界、アメリカ)に対する敵愾心の醸成が基礎にあったと言えよう。所有・非所有の2元論を中心としたものであっても、当時の社会・経済状況はそれに実感性を与えていた。
 
 ところで、現在はどうか。小泉内閣の4年間は、所得格差拡大の4年間。確かに。パート、臨時、派遣などの不安定雇用の拡大、フリーターに加えニートの増加。これらの本質が、働く姿勢・意欲、意識の問題でないことは確かだ。賃金構造はいまや3重構造。3層目の底辺では、自立した生活はできない。あたかも、持てる者と持たざる者の2元対立の激化と写る。
 
 それでは時代に変化はないのか。社会がより豊かになり、成熟社会とも呼ばれる。ポスト工業化社会、ソフト化社会、高度情報化社会とも呼ばれる。
 豊かな社会においても配分の問題は残るし、格差にさえ目をつぶりさえすれば、底辺層でさえ社会の豊かさの恩恵を受け、最低限度の生活保障は得ているという状況にないことも確かだ。
 だとすれば、何か異なるものがあるのか。それは、豊かさと貧しさのあり方の複雑化であり、それに対応した変革の方法論の転換だと思う。2元対立の対極を非難、攻撃し、現状の困難性の訴えを強めることからの転換。
 2元論が通用した時代には、対極の批判は同時に新たな配分システム、新たな社会構想の提示でもありえた。しかし、複雑化した現代においては、非難は単なる非難に過ぎず、自己の目指す社会構想の提示ではありえない。

 独自の社会構想の提示へ、政策能力を養うこと。それを実現していくための方法論、運動論を探求すること。主張それ自体の正当性よりも、より良い社会、生活を実現するための方法論の現実性が問われている。
 それを担う主体者の養成は、労働運動の自己変革の一環としての教育システムの再構築によるところが大きい。それには時として、外部の経験の導入が必要だろう。今までにない、新たな能力が求められているのだから。
 
 個体発生は系統発生を繰り返すといわれる。労組員の成長と労組の歴史との関係にもこれが当てはまる側面がある。しかし、労組はある一定段階で系統発生における成長をストップさせている感がある。そのため、政策、方針の成熟した段階での若い世代への伝達が必ずしもうまくいかず、対立した労使関係の再生産を「元気が良い」、「見込みがある」と評価する向きがないでもない。そして、それが労組の自己変革をさらに遅らせることにつながりかねない。

 コーポレートガバナンスが、厳しく問われている。企業の社会的責任、ミッションが問われている。労働組合は、いつまでそれらを問うだけの側に居続けることができるのだろう。
 自分自身のミッションが厳しく問われている。それが、組織率20%割れというパホーマンスに厳然と現れている。(T.T 2005.5.4)