●大同団結のめざす先は


失業率が高止まりし、来春の高卒就職内定率は8割をきりそうだという。連合の笹森新会長は雇用問題での既存の枠を超えた労組の大同団結を呼びかけた。我がナショナルセンター全労連の小林議長は歓迎の声明を出してそれに応えた。

春闘連敗の中で労組の存在価値はどこにあるのか。大同団結には大いに期待が高まるが、その行きつく先が、単なる「賃上げより雇用」だとしたら寂しすぎる。

労使協調大いに結構、労働者が企業収益に関心を払うのにも賛成だが、それが労組側の一方的な譲歩にすぎないのであれば、会社も社会もどこか狂っていくだろう。

私たちの譲歩は、いまや全雇用者の四分の一にもなった臨時・パートなど低賃金労働者と失業者のためのものでなければならないだろう。そのための仕事の分かち合いであり、賃金の分かち合いでなければならない。経営側に譲歩の用意はあるのか。

医労連でも賃上げ要求方式の見直し論議が始まっている。しかし、それを単なる要求額の高い低いの問題に矮小化してはならない。日本型企業社会を糾す要求方式の模索でなければならないだろう。

「生産条件」と「生存条件」とが一致しない社会、「経済の成長」が「社会の衰退」をもたらす今の日本社会。それは、「膨張大量生産」、「膨張大量消費」に支えられた歪んだ社会である(内橋克人)。しかし、労組にはそれを一方で消費者として側面から支えてきたという自覚も必要だ。

賃上げに厳しい経営者は雇用にも厳しいものだ。選択論ではなく、あまりにも「人に厳しい社会」を見直す視野の広い、視線の長い要求を掲げるべきだ。

小泉さんの手本がアメリカにあるならば、われわれの手本は少なくとも部分的にはヨーロッパにある。節約と成長が両立する、浪費なき経済成長の社会が、国民意識の中に根付きつつある。労組の大同団結の芽は、この土壌からこそ出てくるべきではなかろうか。(T.T