●大いなる無自覚と最高知識

資本主義を批判することは簡単だ。小泉内閣の政策を批判することも、それ以上に簡単だろう。しかし、それに代わるシステムを提案することは簡単ではない。
 「批判は批判として一応筋は通っている」。が、「それではあなたは何を望んでいるのか」。「いまの社会をどう変えようというのか」。この質問を突きつけられると言葉に詰まる人も多いだろう。
 「本当に今の社会に不満なのか」。「少なくともこの社会を根本的に変革すべきと思うほど不満なのか」、と問いたくなる。
 この心のもやもやに答えてくれる本に出会った。レスター・C・サローの「知識資本主義」(ダイヤモンド社)である。

何かを批判する人も、その自分の批判が論理的に何を結論付けるのかを分かっている人は少ない。
 「グローバリゼーションに反対する激しいデモを見れば、彼らが怒っていることは歴然としている。しかし、彼らが何を求めているのかはまったく明らかでない。もしかすると、『昔に戻る』ことなのかもしれない。または『将来』を警告しているのかもしれない。」「抗議している者たちは、しばしばグローバリゼーションは終わるべきだと唱える。グローバリゼーションを終わらせるということは、国家間の貿易や資本の移動を停止するか、ないしは制限するために政府が規制を設けることを意味するだろう。もしそれが実施されたなら、裕福な大国の平均的家族の生活水準は若干落ち、裕福な小国では相当に落ち、そして途上国は大きな打撃を受けることだろう。」(p129)

「政府が企業をグローバル経済から排除しようと考えたところで、あまりにも多くの市民-有権者-労働者たちが生活の糧を得るためにグローバル経済に頼っている。」「グローバル経済の一員として、発展途上国は引き返すことはできないところまで来ているのである。もしそれらの国々の市民がそれに反対したいのなら、残された唯一の選択肢は、彼らが望む新たなグローバル経済の構築を模索することである。」「真なる最後の問いは、参加するか、しないかの問題ではない。そこには第三の選択がある。つまり、自然発生的に生じるグローバル経済とは異なるものを意図的に計画し、つくり上げていくということである。」(p41)。このグローバル経済の制御が、既存の国際組織(国連、IMFWTO等)によるのか新たな国際政府によるのかは、議論が必要だとしても。

これら一連の指摘は、資本主義への批判者にも当てはまるであろう。
 「景気後退も金融危機もない経済システムを選択することは可能である。第1次大戦から70年間、旧ソビエト連邦下の共産主義では景気後退も金融危機も起こらなかった。同じ時期、アメリカは4度もの金融危機、11回もの景気後退、そして大恐慌に1回襲われている。この違いは歴然としている。共産主義国ではそもそも崩壊する金融市場が存在しなかったのである。党中央による計画経済下では、需要過多が常に存在していた。計画経済の立案者たちは、供給よりも需要を多く創出しようとしていた。景気後退はまったく不可能だったのである。しかし、資本主義がいかに危険であろうとも人々がそれを望むのは、共産主義が与えることのできない高い生活水準を欲するからである。」(p35)

景気変動がないという共産主義の良さは、需要過多=過少供給からきているのである。恐慌や不景気は、過剰な生産(供給)から来ることを経済の教科書は教えている。そうであるなら、景気変動のなさは人間の英知の賜物ではなく、その低段階を表しているといえる。資本主義より低い生活水準での供給不足なのだから。
「暴れ馬」としての資本主義の本性をこの本は、次のように描き出している。「資本主義の成功とその不安定さの理由は、人間の3つの根本的な態度に求めることができる。欲、楽観、そして群集心理だ。」「欲が経済成長とより高い生活水準へと人を導く」(p48)。

 
著者は、グロ−バル経済・知識資本主義の時代を勝ち抜くためには、CKO(最高知識責任者)の存在が重要ととくが、氏が言うとおり資本主義はその本姓ゆえに「成長」なしにはやっていけないのであれば、環境との調和をどのように制御すべきなのか、「高い」生活水準をどのようにコーディネートすべきなのかの「最高知識」こそ伝授願いたい。