写真で見る医療労働運動の歴史
 このページは、日本医労連の中央執行委員を長年務められ、先に退職された堀幾雄さんの協力を得て作ったものです。20年近く前、高知県医労連の定期大会でスライドを使い講演された時の印象が強く、無理を言いコメントの執筆をお願いしたものです。編集は、高知県医労連で行ないました。
 医労連の各組織、組合員が活用されることは自由ですが、著作権は堀氏及び高知県医労連に属しますので、ご使用の際にはメールでその旨お知らせください。


看護師も人間だ!戦禍の中立ち上がる医療労働者



 戦後、医療労働者、なかでも職場で多数の看護婦は
従軍看護婦のくさびから開放されました。(従軍看護婦については執行部に質問してください)。看護婦は日本軍のアジア侵略戦争に従軍看護婦として駆り出され、中国などで数万人戦地でなくなりました。


 しかし、「民主主義」の時代になっても、組合がないため封建時代のような経営者のやりたい放題、
人権無視の職場が依然続きました。数年間、
人間扱いされない苦難の時代がつづきました。

全寮制、妊娠制限のくびきとの闘い
 
 「私ことこのたび就職するについては、結婚、通勤せざる終えないような事態を生じた場合には、直ちに退職することを制約します」という誓約書を書かされた全療制時代には、「かごの鳥」とよばれました。結婚していることを隠して就職し、土、日に外出届けをだして、夫や子どもに会いに帰る看護
婦は「土曜婦人」呼ばれていました。


   1959年、それは、国立高田病院につとめる一人の看護婦の訴えからはじまった事件でした。全医労本部に舞い込んだ一通の手紙には驚くべき事実が書き込まれていました。「当職場には,既婚看護婦のみの互助会がつくられ、計画出産が余儀なくされています。きめられた期間以外に妊娠した場合、互助会に持ち出すこともまかりならんとされており、適当に自分で始末しなさいと言うことです。最近Kさんが計画外に妊娠してしまいなんとかして生みたいといっており、意見がまとまらず投票になったのですが、この紙1枚で人の命を左右することを見逃すことはできません」。
 当時の朝日新聞は「あまりにも、あまりにもみじめすぎる」(天声人語)と驚くべき看護婦の悲劇を告白しました。1949年に国立病院に特別会計制がひかれ、結核患者をかかえ、化学療法で患者が減る全国ビリに近い赤字の施設での人員削減がこのような問題をひきおこしたのでした。

全国に燎原の火のように広がった病院スト

 こうした劣悪な労働条件に対して、組合をつくって働きやすい、生活できる職場をと1950年代後半から
60前半、各地で闘いがはじまりました。
 たとへば、東京の順天堂病院では、1960年春(1)恋愛、結婚、妊娠の自由を認めよ(2)組合宛信書の秘密を守れ(3)地下居住職員を地上に上げよ(4)総婦長を選挙制にせよ(5)一律4000円のベースアップの要求をかかげました。


 都労委の斡旋案を病院側はけって、団交はすべて拒否。組合幹部への誹謗中傷、年末の冷え込む早朝、赤い鉢巻の看護婦組合員は、生まれて初めてピケをはりました。赤旗がなびき、支援団体に守られる中でストライキが二度、三度か決行されました。

 
 年の暮れが迫ると共に、大学側は非組合員のみにボーナスを払ったのです。「ボーナスがほしければ組合脱退届けをもってこい」と攻撃をかけました。


 「ボクは進学をあきらめるから、ボーナスなど貰うなよ。組合のみんなとがんばんな」。ある雑役の寡婦と少
年は抱き合って泣いたといいます。
 組合役員のひとり小谷看護婦は悩んだ末に鉄路に身を投じました。
 しかし組合は屈せず、三役解雇の攻撃の中で闘い続け前進したのでした。

健保改反対など社会保障を守る国民的運動の前進とあいまって
 
 1950年台になっても政府は、大企業へは予算を手厚く配分してきましたが、社会保障に対して、特に医療については、低医療費政策と呼ばれる低い診療報酬により、医療機関の赤字はまし医療労働者の生活も改善されない時期が続きました。1955年には大幅患者負担の健保改悪が提案されました。
 ついに1958年10月全医労、全日赤、都医協などが中心となって「社会保障医療改善従業員協議会」が結成されました。
 これには日本医師会も共同に参加し、総評も全面的に支援し、日本患者同盟も支持し、健保の改悪は許したもの大きな譲歩も勝ち取るなど、「労医提携」という幅広い国民的運動は大きく前進したのです。


 3年越しの健保改悪反対闘争で各地で「医療改善従業員協議会」が作られ、「労医提携」の運動がすすむなか、医療労働組合をもっと強い全国組織にしようと話し合いがもたれました。ついに57年8月20日、東京の国労会館で日本医療労組連絡協議会、日本医労協が結成されたのです。
 初代議長となった全医労の岩崎清作(そのご議長を18期勤めた)は「政府の貧困な医療政策によって国民医療の諸制度は危機に瀕し医療労働者の低賃金と労働強化によって辛うじてささえられている。われわれは近代的な労働者の自覚に立ち、生活と権利、国民の医療を守るため勇敢にたたかわなければならない」と決意をのべたのでした。

60年安保闘争の高揚の中、攻撃に屈することなく

 当時、歴史的な安保闘争が闘われていました。日本がアメリカべったりの国になることに反対し、日米軍
事同盟に反対する国民的運動でした。日本中が闘いにたちあがり、安保条約は成立したものの時の、岸内閣は辞職においこまれました。
 医療労働者の賃金は他の労働者と比べて低く「どんぶり」的経営管理が横行していました。賃金引上げの闘いは、人勧後に闘われ、公務員に準じるどころか、それより低い賃金があたりまえでした。58年に日本医労協を3万人で結成した仲間は、安保闘争にも励まされ「食べていけない。賃金を人並みに」「医療費を引き上げよ」「看護婦の重労働廃止」などかかげて、全国的にたたかいにたちあがりました
 これは日本の医療労働運動はじまっていらいの全国的な共同した闘いとして、医療の夜明けを切り開く病院スト」といわれる闘いです。


  60年11月1日、東京医労連7組合、1400人がストに入り、25日には全日赤35組合がストに、こうして全国で125組合300病院6万人が参加する大闘争に発展していきました。全国組合では、全日赤14波、全労災5波、厚生年金労協4波、東京医労連21波、新潟県医労協14波、京都医労連6波、岩手医労協4波など統一した闘いに参加しました。

 歴史的な病院ストで、組織も闘いの成果もおおく勝ち取った闘いでしたが、ものすごい弾圧とのたたかいでもありました。
 全日赤のストライキは61年3月まで11波決行されました。日赤本社は、組合の一律5000円、最低1万円要求に対して、公務員体系実施を譲らなかったのです。日赤本社の直轄病院である中央病院に事務系を中心に組合脱退が行われ、第二組合、第三組合が誕生、そのうえ看護婦のみの第4組合も生まれたのでした。

そして、人権ストの勝利へ

 経営側が懐柔と強権の圧力で脱落させるものはほぼ落としつくした後に残された組合粉砕の手段はロックアウトと警察権力の利用でした。経営側は、組合側のスト中止に対して、非組合員を導入して職場阻止をはかりました。武蔵野日赤にも行いました。しかし組合は分裂、弾圧にも負けないで、経営をおいつめたのでした。

 
 結成したばかりの医労協の闘いに、国民各層から連帯と支援の行動がさしのべられました。総評は「共闘会議」を結成、保険医団体、看学連、日本患者同盟の共闘支援、さらに看護協会、日本医師会も支持し、文字どうり、国民的医療改善運動となったのでした。政府は妥協せざる終え
なくなり「医療費は改定し、看護婦の重労働は改めるよう指導する」と言明するなど、病院ストライキは政治闘争として発展したのでした。
 
こうして病院ストライキは「一律3000円以上、最低保障1万円、週44時間制 」などの要求を解決し医療費を2けた台の12・5%引きあげさせるなど、おおきな成果をあげました。

全国に広がる夜勤制限の闘い

 
 そして、「夜勤は月8日以内に」とたちあがったのが、夜勤制限闘争です。
 自民党政府は1961年国民皆保険制度が確立すると引き換えに、医療費を抑えるため低い診療報酬を軸に低医療費政策を推進しそのため総経費の50%をしめる人件費を抑圧するため人件費の40%をしめる看護婦へもうれつな人減らし「合理化」、攻撃をかけてきました。
 そのため、職場で、たいへんな状況がすすみました。


 「なぜこんな道を選んだのだろう」。眠れない昼間、眠くても起きていなければならぬ夜。イライラ頭痛、肩こり、胃腸障害、吹き出物、足のだるさ、むくみ。「自分の身体をこわしてまでこんな職を続ける必要はない。」という思いとの闘い。
 

看護婦を続けるのか、やめてしまうのかの岐路の中


 「でも私、患者さんと接していると楽しい、病院がいやで逃げ出す患者もあったけど、何とかよくしてもらおうとすがられる時、手伝える喜びと知識や教養が相手に伝えられる。私にあっているし、良い職だ。
 「でも、13、14日の夜勤で狂いそうな顔と身体をかかえ、いつ、やめようかと思っている。もっと看護婦を、私に看護婦を続けさせて」。
これは、京大病院労組の看護婦さんの訴えです。


 全国の看護婦は、いま団結して立ち上がるか、真の意味での看護婦をやめてしまうかの岐路にたたされました。

 

「複数8日」の要求掲げ協定化へ

 
 良い看護、納得の行く看護と複数夜勤、月8日の制限を要求して、1968年3月、新潟県立病院の組合が自主的な看護婦勤務の組合ダイヤを組んで、実力で増員夜勤を実施し、県民世論の圧倒的支持もえて、県当局を追い込み、3年間で、
「複数夜勤、月8日の」を実現する協定をかちとりました
  


 この朗報が全国に伝えられる中、これに激励、刺激され、8月に山形市立病院済生館、9月に富山県立病院、10月には岩手県立病院20、その後、この闘いは、全国各地の公立病院や公的病院、国立大学病院から民間病院へとひきつがら当時でも200をこえる病院で協定がむすばれたのでした。


 新潟県立病院の看護婦は団交の席で次のように訴えました。
 「私たちは看護婦として当然おこなわなければならないことができないので苦しんでいます。新生児のラッパのみはあたりまえのようになっています。術後患者がブザーを押しても看護婦がいないので一人でトイレにいったら転び骨折しました。起きられない患者がいても食事介助ができません。あおむけのまま一人で食べます。準夜は11時まで食事ができません。看護婦は人間でないのでしょうか。


 中央でも全国から厚生省や国会議員に、ニッパチの実現をと連日、上京団が取り組まれました。

全医労「複数月8日以内」の人事院判定かちとる

 
 一方、自治体や日赤などの公的病院を軸にした、夜勤制限闘争と前後して、国立の仲間、全医労
の国を相手取るおおきなたたかいが準備されていました。
 全医労は、職場が人手不足で、このままでは患者も看護婦もぼろぼろになってしまうと、ついに63年4月人事院に「夜勤は月6日以内、一人夜勤の禁止、看護単位40床、産後1年の夜勤の禁止、休憩休息時間の明示」をもとめて行政措置要求をだしました。2年間のたたかいのなかで、人事院は職場での実態調査をふまえてついに1965年5月、「夜勤は月8日以内、一人夜勤の廃止」を判定しました。まさに、歴史的な成果でした。





全国の闘いが東京へそして東京へ。そして、ついに国会が動いた!

 まさに、全国から息もつかせぬ闘いが、東京へ、東京へとすすみはじめました。全国では寒い雪の中、北海道でも、山梨でも、各地で、政府をおいつめる署名があつめられました。こうして短期間でしたが署名70万、自治体決議も1000を越え、世論は医療労働者を励ますように背中を押して
いただくように、そして、マスコミも病院の現場にはいり共感を呼ぶ報道も行われるようになりました。


 ついに1969年6月に参議院の委員会で集中審議が行われ、人事院判定の速やかな実施をもとめる国会決議が与野党一致で採択されました
 1973年には労働省が月の内3分の1を越える夜勤を規制する通達をだしました。1974年には厚生省に看護婦増員5ヵ年計画の予算をつけさせることができました。
 まさに、確実に増員・夜勤制限の闘いは、国に真摯に取り組むことを強制させました。

働き続けるために実力行使から始まった、院内保育所の闘い


 もうひとつ忘れてはならない、大きな成果があります。1974年院内保育所にたいして国から運営費の国庫補助を勝ちとったことです。
 いまや、病院に院内保育所があるのは常識ですが、それには長い間の苦労があったのです。1960年頃から医療で働く看護婦など医療労働者がふえてきました。しかし公立保育園などでは、保育の時間が昼間のしごとにあわせてあるため、2重、3重保育など並々ならぬ苦労があり、その上夜勤では、夫の協力も限界です。医療の既婚婦人は離婚か離職かにおいつめられました。
 写真にあるように、組合では、まさに、自分たちで保育所をつくりました。無理解な事務長にたいして赤ちゃんを事務長室に強引にあずけて、苦労をともにさせた実力行使もおこなわれました。こうして職場保育所がおおくの病院で作られてきたのが、国庫補助を実現させたのです。そして、その予算は看護婦確保予算からでることになりました。



 夜勤の車送りの情景

看護師不足は世界共通。国際活動、シイポの開催など多彩に

 
 看護婦不足問題は日本だけの問題ではありえませんでした。世界中で、夜勤の多さ、重労働の割りに待遇のひどさ、社会的地位の低さなど、看護婦が誇りをもって働き続けられないため、離職がすすみました。まさに看護婦問題は国際的な問題になっていたのです。
 こうした、世界の看護婦のたたかいを反映し、1977年にはILO(国連の機構で国際労働機構)で「看護職員条約」が採択されたのでした。スイスのジュネーブで開かれた会議に、日本の労働者を代表して、日本医労連・全日赤の柘植さんが出席、奮闘しました。
 また、2001年9月には、日本医労連が世界の医療関係労働組合に呼びかけ、「国際シンポジウム」を東京で開催しました。



 

看護婦不足、3K解消へ大きな波が起きた。80年代後半からのナースウエーブの運動


 そして、次の歴史的な大きなたたかいは、1989年からはじまったナースウエーブのたたかいです。組合の役員のかたで、この運動に参加された方も多くいます。


 医療の職場でも、長年のたたかいで、職場の労働条件は改善されてきたものの、ふたたび長時間、過
密労働がおしつけられ健康破壊、退職者の増大、いっそうの過重労働などがすすみました。若い看護婦が休みもとれなく、急死するケースもうまれました。 3k職場の典型といわれました。
 もう一つの過密労働の特徴は、アメリカ型の看護体制、労務政策が導入され、無駄な仕事をはずし、効率的に仕事をする。看護体制が改悪され、看護婦を頂点とするピラミット型の勤務形式の下、無制限の長時間労働も強要されました。

全国各地で看護師が立ち上がった。闘うことが患者を守ること

 1989年の日本医労連の大会で、これ以上放置できない看護婦の状態を改善して、患者の医療を
守るために、「看護婦闘争」を産別統一闘争として闘うことを決めました。このたたかいはナースウエーブのたたかいともいわれます。看護婦自らが先頭に立ち、職場での団体交渉、自治体交渉、議会請願、集会、デモ、ストライキなど創意工夫をこらした運動がとりくまれました。
 「看護婦110番」や、「看護婦の国際シンポジュウム」も東京で開催するなど、地域の組合に入っていない看護婦さんなども応援するなど、おおきな運動となりました。

 
 全県に看護婦闘争委員会が結成され、看護婦自らたたかいにたちあがりました。
 マスコミの記者を病院の夜勤に招待し、まもなく「看護婦の訴えは正しい」「患者国民にとって要求の実現は当然」とする記事が全国で掲載され、国民の支持が日に日にひろがりました

全国の運動が「看護婦確保法」をかちとる

 たたかいいは、国会や政府を揺り動かしました。
1992年6月、第123国会で 「看護婦確保法」が成立し、12月には「基本指針」が告示されました
 これは長い医療労働運動、看護婦闘争のなかでも、国が看護婦不足を認め、抜本的改善の特別な法律を決めたことでも画期的なことです。「基本指針」では、「適切な賃金水準の確保、完全週休2日制、夜勤の複数、月8日以内、年次有給休暇の取得」を謳っています。
 この確保法準備には、医労連に政府、与党から多くの相談がありました。







 
 日本医労連は、国民の医療を守り、医療労働者の賃金、労働条件を改善し、結成以来頑張ってきました。
 いまでは、組合員は17万人をこえ、政府や自民党などからも看護問題では意見を聴きに来るなど大きな影響力をあたえ、国際的にも、ニホンイロウレンは認められる組合として発展してきました。
 これからも、私たちは、300万人を越える医療・福祉労働者を組合にむかえいれ、医療と福祉の労働条件を大きく改善し働きやすい職場にしたいと願っています。